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東京地方裁判所 昭和31年(ワ)9308号 判決

原告 中山福太郎

被告 工藤嘉七 外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、

その余を被告の負担とする。

事実

原告の請求の趣旨及び原因は別紙訴状記載のとおりである。但し、原告は、「貸地は住宅用敷地として使用し其の他の用途に使用しないこと」という特約違約の点は本訴においては主張しない。被告が特約に違反し、近隣の妨害となるべき事業をなしたことのみを理由とするものである。と述べた。

被告等訴訟代理人富川信寿、穴水広真は原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として、原告主張のような特約のあつたこと、被告が原告主張のように近隣の妨害となるような行為をしたこと、原告や附近の居住者から善処方について厳談をうけたり、苦情を持ち込まれたりしたことがあるとの点は否認するが、その他の原告主張事実は認めると述べ、なお、別紙準備書面記載のとおり答弁した。

証拠関係は、原告において甲第一、第二号証、第三、第四号証の各一、二、第五、第六号証(写)を提出し、証人和久次枝及び原告本人の尋問を求め、乙第一号証は成立を認めるが、その他の乙号証の成立は不知と述べ、被告において乙第一第二号証、第三号証の一ないし二六、第四、第五号証を提出し、証人和田為吉及び被告工藤嘉七本人の尋問を求め、甲第二号証の成立は不知、その他の甲号証の成立及び第五、第六号証の原本の存在は認めると述べた。

理由

原告が被告工藤嘉七に対して本件土地を建物所有の目的をもつて賃貸したことは当事者間に争なく、成立に争のない甲第一号証の土地賃貸借契約公正証書正本によれば、右賃貸借には「賃借地内に於て危険又は衛生上有害若くは近隣の妨害と為るべき事業を為さざること」という条項のあることが認められる。被告等は右条項は例文にすぎないというが、被告等の全立証によるも右の条項が全然拘束力のないいわゆる例文にすぎないものと認むべき資料はない。なお右の甲第一号証によれば、右の条項に違反したときは催告を要せずに賃貸借契約を解除できる旨の特約のあることが認められる。

証人和久次枝、和田為吉、原告本人及び被告工藤嘉七の各供述、原本の存在及び成立に争のない甲五、第六号証、原告本人の供述によりその成立を認めうる甲第二号証、被告工藤嘉七の供述によりその成立を認めうる乙第二ないし第四号各証を綜合すれば、被告工藤嘉七は予てから本件借地にムトン工場を経営していたが、昭和二七、八年頃から工場から発する煤煙、騒音、震動が激しくなり、附近の居住者が相当に迷惑をして原告に対して善処方の運動を始め、また被告嘉七に対しても直接苦情を持ち込む者があつたこと、原告自身もその頃子供が病気の際工場から発する震動に堪えかねて被告嘉七方を訪づれて直接抗議を申入れたが、被告嘉七は、そのうちに他へ移転するから申訳ないが暫らく猶予を願いたい、というのみで格別の措置をとらずにそのまゝ操業を続けていたことが認められる。また、附近住民の蒙つた被害の程度は原告のいうように家屋はゆがみ、壁ははげ落ち、洗濯物はよごれ、柱時計はとまり、ラジオは故障続出するというようなひどいものではなかつたが相当程度に近隣の居柱者の日常生活をかき乱し、これに苦痛を与えていたものであることは十分にこれを窺うことができる。前記証拠資料のうちこの認定に抵触する部分はいづれもこれを採用しない。

しかして、原告が昭和二九年一月三一日被告嘉七に対して前記の特約条項違反を理由として借地契約解除の意思表示をしたことは当事者間に争がないのであるから、右の借地契約はこれによつて解除されたるには似たりというべきものであろう。

しかしながら、成立に争のない乙第一号証によれば、本件借地は建設省告示第二〇六号をもつて指定された工業地域内にあることが明らかであるから、被告嘉七がムトン工場を経営したこと自体をもつて直ちに「近隣の妨害となるべき事業」をなしたるものといい難いことは勿論であるのみならず、近隣の居住者も住宅地帯の場合などとちがつて或る程度は工場から発する煤煙、騒音、震動等による生活上の苦痛を受忍すべき地位にあるものと解するのが相当である。もつとも、前認定のように附近の居住者が原告や被告嘉七に対していわゆる抗議運動を展開した事跡に徴すれば、被告嘉七のムトン工場から発する煤煙や騒音や震動の程度は、一応、右にいう受忍すべき限度を超えていたものと推認するのが相当であろうが、その超えたる程度は、前記のように原告のいうほど著るしいものではなく、前記甲第五、第六号証及び乙第二ないし第四号各証によれば、近隣の居住者も被告嘉七のムトン工場に対し裁判所に訴えてもこれが立退を強制しようとするほどの強い反情を持つていなかつたことが推認されるのである。しかして被告嘉七本人の供述とその供述によつてその成立を認めうる乙第五号証によれば、被告嘉七は四囲の状況に鑑み昭和二九年八月三一日限りでムトン工場を廃止し不動産周旋業に転じ、爾来、近隣の妨害となるべきような行為をしていないことが認められ、前記乙第二ないし第四号各証及び甲第五、第六号証によれば、近隣の居住者も現在は被告嘉七の苦境に対してむしろ同情的な立場にあることが推認できる。

いわゆる「近隣の妨害となるべき事業をなさざること」という条項は、近隣の居住者に対する貸主の道義的責任感から挿入された条項で、借地契約におけるその比重は地代の滞納や用法又は保管義務の違反などにくらべてかなり軽度のものとみるのが相当であろう。この比重の軽るさと前段認定の各般の事情を綜合すれば、原告が本訴において前記契約解除の効果を主張して被告等に土地の明渡を請求することは、法律上の形式論理としては格別、社会生活の実際においては著しく妥当を欠き、いわゆる権利の濫用としてこれを許容しないのが相当であると考える。

よつて、原告の請求を理由のないものと認め、主文のとおり判決する。

(裁判官 石井良三)

訴状

(中略)

請求趣旨

原告に対して、

被告工藤嘉七は後記目録の第二、第三、第四の建物を収去してその敷地である同目録第一の土地を明渡し、旦つ昭和二十九年二月一日以降右明渡済に至る迄一ケ月金五百三十七円の割合による金額を支払へ。

被告工藤嘉光は後記目録第三の建物から、被告工藤あき、同田中光夫は同目録第四の建物から夫々退去して其敷地を明渡せ。訴訟費用は被告等の負担とするとの判決並に仮執行の宣言を求める。

請求原因

一、原告は昭和九年八月一日被告工藤嘉七に対して東京都太田区羽田一丁目三九七番(旧千三百番)の宅地五十一坪六合六勺を賃貸期間を昭和二十九年八月一日迄(二十年)として貸付けた。

右賃貸借については貸地は住宅用敷地として使用し其他の用途に使用しないこと、貸地内に於て危険又は衛生上有害若しくは近隣の妨害となるべき事業をしないこと等を特約した。

而て其後右貸地の隣接地十五坪三合九勺を前同様の条件を以つて貸増したので貸地は六十七坪一合五勺となつた。爾来幾度か地代は改定されて昭和二十六年以降は一ケ月金五百三十七円となつた。

二、被告工藤嘉七は前記借地上に後記目録表示の建物を建築して店舗住宅に使用していたが大戦中から工場に使用する様になつた。しかしその当時は近隣の迷惑となる様な作業もしなかつたし、戦争中の事とて工場使用に対しても異議を申立てることも出来なかつたのであつたが終戦後は一時工場も休止していた。ところが昭和二十七年に至つて工場の煤煙、騒音、震動が激しくなつたので、近隣の迷惑一方ならず為めに附近住民から度々原告方に苦情を持込み善処を要請されたので、原告は同年八月附近住民達と同道被告工藤嘉七方に赴き煤煙、騒音、震動の防止等について極力善処する様厳談したところ、右被告はなるべく迷惑をかけぬ様にいたしますと陳弁したのであつた。然るに同被告は其後何等配慮するところないのみならず、翌二十八年七月頃から既存の約三倍もある「ムトン」(金属圧延機)の増設をして繰業されたので、騒音、震動、煤煙は一層激しくなつて近隣の家屋は歪み、壁は剥落ち、洗濯物は汚染され、柱時計は止り、ラジオは故障続出、殊に人体に及ぼす精神的肉体的苦痛は愈々はげしくなつたので、附近住民中には同被告方にどなり込む者もあり又原告方にも数次苦情を持込まれた次第であつた。

かくて原告もこのまま放任することが出来なくなつたので、同被告に対して昭和二十九年一月三十一日前記賃貸借の特約違反を理由として本件土地賃貸借契約を解除した。

三、被告工藤嘉光は後記目録第三の建物、被告田中光夫同工藤あきは同目録第四の建物を夫々使用して本件土地を不法に占有しているものである。

四、よつて原告は被告等に対して建物収去土地明渡を求めたけれども言を左右に託して応じない。而て原告は之がため毎月地代相当の損害を蒙つている。

仍て本訴提起に及んだ次第である。

物件目録

第一東京都太田区羽田一丁目三九七番

一 宅地六十七坪一合五勺

第二同所家屋番号同町一五五番

一 木造亜鉛メツキ鋼板葺平家建工場一棟

建坪十坪(実測建坪約二十坪)

第三同所家屋番号同町一五六番

一 木造瓦葺二階建店舗一棟

建坪十坪七合五勺二階七坪

第四右附属建物

一 木造亜鉛メツキ鋼板葺平家建物置兼工場一棟

建坪五坪二合五勺

準備書面

一、原告は本件賃貸借について(1) 貸地は住宅用敷地としてのみ使用し、その他の用途に使用しないこと及び(2) 貸地内に於て危険又は衛生上有害もしくは近隣の妨害となるべき事業をしないこと等を特約したと主張しているがかゝる約束をしたことはない。もつとも右賃貸借について作成した公正証書には右趣旨にそう記載があるが、被告工藤嘉七は当時右土地上に住宅兼店舗を所有し、そこで材木商を営んでいた訴外村石政見から引続いて材木商を営む目的で右建物を買受けたものであつて、原告もこれを承知の上本件土地を賃貸したものであり、又本件貸地を含む附近一帯は当時昭和四年内務省告示第一二一号をもつて工業地域に指定されており、しかも近隣は多く泥田で他の人家は全くなく、今日の如く人家が密集して建てられることは全く予想されていなかつたものであるから、右の約定はいずれも単なる例文にすぎず、当事者はもとよりこれによる意思はなかつたものである。

二、仮りに原告主張の如き特約があつたとしても、(1) 被告工藤嘉七はその後材木商をやめ、昭和十四、五年頃から前記建物の後方の本件土地上に工場を建設してこれを鉄類の鍛造工場(ムトン工場)として使用し、原告はこの事実を知りながら拾数年間も何ら異議を述べなかつたのであるから、原告は右使用目的の変更を承認したものというべく、又、(2) 工場使用に際し多少の騒音、震動等があつたとしても前述の如く本件土地附近一帯は工業地域(昭和二十一年戦災復興院告示第九七号をもつて一時住居地域に変更指定されたが、同二十三年建設省告示第二〇六号をもつて、再び工業地域に変更指定された。)であつて、他にも同種の工場が相当設けられており、しかも、その騒音震動等はきわめて微弱であつて社会生活上容認さるべき程度のものであるから特約(1) については、その違反が問題となる余地はなく、(2) については、契約解除の理由となるほどの違反事実はないものといわざるをえない。

三、なお被告工藤嘉七は、前記工場を昭和二十九年八月三十一日をもつて廃止し、そのために生じていた震動騒音等は全くなくなつている。

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